岐阜戦は、写真撮りとして完敗だった。後半はスペースがあくはず。スペースができればオープンな打ち合いになって、躍動する攻撃陣が撮られるはず。その勘が外れて、ボールのこない岐阜のゴール前でひたすらボーッとしていた。
せめて、試合後の晴れ晴れとした選手やサポーターの様子を撮ろう。そう思い、試合終了した瞬間にゴール裏までダッシュして、知り合いに頼んでその最前列までやって来られた。
ああ、ゴール裏といっても誰か知らないサポーターの顔のアップとかそういうのじゃないから、文句をいわないでね。
けれどそこにあった空気感は、予想していたのと全く違っていた。サポーターは、一部は喜んでいて、一部は笑ってもいなかった。内容が伴っていない勝利に、どうしていいか戸惑う感覚、それが重苦しく垂れ込めていた。
罵声の先にいる健勇
その被害を一番被っていたのが、杉本健勇だった。
彼は一部のサポーターにウケが悪い。情緒が不安定で、恵まれた体躯とスキルを活かし切れない。イーブンのボールでもあきらめたりする。打っていいシーンで消極的なプレーをする。そういう煮え切らない過去のプレーの数々が、彼に「だらしない選手」というイメージを定着させてしまった。
それで、とても心優しいセレッソサポーターは、好意から、彼が消極的なプレーをする際には「自分で打てや!」「なんで勝負せえへんねん!」とスタンドから声を荒げるようになった。これが何年も続いた。川崎から復帰した今もなお続いている。岐阜戦でもそうだった。
そんな言葉をかけられて、笑顔でいられるとしたら、マゾヒストかタフネスか、狂人くらいだろう。そのどれにも属さない彼は、苦虫を1ダース噛み潰したような表情で、下を向いて堪えていた。
さて、彼はこの優しいサポーターの声を聞いて、素晴らしい選手になるきっかけをつかめるだろうか?
正しいなんて誰が決めるの?なにで決まるの?
少し話を飛ばそう。俺は「正しい」とか「常識」という言葉が大嫌いだ。普遍的正しさとか普遍的正義なんてものはどこにも存在しないからだ。
ある国では人の頭を撫でる事は慈愛の表現であるけれど、違うどこかでは屈辱を与える行為だ。人を殺すというおよそ正しくはない行為も、戦争中は常識になる。殺さなければ敵に殺されるか、味方に殺されるかしかない。
これは極端な例ではあるけれど、およそ全ての行為は誰かにとって正義であり、誰かにとって悪なのだ。正しい行為なんてありはしない、結果がついてきて後から正しかったのだと確認できる、その程度のことだ。
だから、杉本に優しい激励を行う彼らにも、彼らなりの正義というものがあることを理解する。
その上で、彼らが嫌いだ。
俺自身の信じる正義の中に、人をけなし、批判して矯正するという選択肢がないからだ。
罵声の違いってなんなの?
例えば、敵チームで憎んでも憎み切れない相手がいるとする。サポーターなら彼がボールに絡むたびにブーイングをするだろう。タフな選手ならさらりと受け流せるだろうが、およその人間なら動揺する。そのためにブーイングをするのだから、当然だけど。
杉本に送られるそれと、敵チームの選手に向けられるそれとで、どう違うのだろう?ピッチレベルにいる選手に「これは激励」「これは憎しみ」と判別できるほどの差異があるのだろうか?少なくとも、近くにいる俺にはわからなかった。
どうしても、誰かをどのようにか動かしたいなら、例え眼前にある欲求が芽生えたとしても、仮面を被って最も効果的な行為を全うすべきだ。子どもが泣き出してイライラとしていても、笑顔を作って抱きしめる母のように。クソみたいな受験勉強から逃げ出したくても、その先に幸せに続く可能性が待っているのだと信じる受験生のように。
それができないなら、普通に応援してくれ。
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