5/11/2016

松山という街、愛媛FCという存在。 #ehimefc #愛媛FC #cerezo #photo #diary


松山という街は、俺にとって特別な意味を持っている。尊敬していた祖父が旧制松山高等学校に通っていたからだ。

90年前、祖父が青春時代を過ごした街は、都会に比べて時間がゆっくりと流れていた。だからだろうか、たくさんの古い建物が残り、人も穏やかでどこか懐かしさと親しみを感じた。


鰻屋の話


大阪から松山までの高速バスは10人も客がおらず、ゆっくりと旅を楽しめた。昼過ぎに松山市駅に到着、四国のうまいものを腹に入れようと、下調べして見つけた「うな一」さんという鰻屋に入る。旅費は限られているので鰻重ではなく鰻丼、でも弁の立つおかみさんは笑顔で迎えてくれた。

この人は俺よりも多弁多動な人で、人と話しているんだが鰻を焼いているのだか、はたまた釣り銭を用意しているのだか、よくよく見ておかないとわからない人だった。それでいて少しもイヤな感じがしないのは、明るく穏やかで人懐っこい性格によるものなのだろう。


大阪からサッカーを観に来たというと、いろいろと愛媛FCのことを話ししてくれた。クラブのことを「FCはね……。」と呼んでいたのは、地元に定着している証なのだろうか。

まず口から出たのは、スタジアムが町中から遠く、年寄りには観戦するのが一苦労だということ。都心の大街道、松山市駅からバスにゆられて30分あまり、人口50万程度という街の規模から考えると、ニンジニアスタジアムは郊外という言い方すら出来ないような遠隔地のようだった。


おかみさんの話は続く。商売人としてはやはり都心にスタジアムがあって、試合後は飲みに出るとか遊びに行くとか、そういうのがないとね、と。

このあたりの話を聞くと、セレッソは恵まれているんだなと感じる。なんばから12分で長居駅、そこから歩いて10分もかからない。スタジアムの近所でも、天王寺でもなんばでも盛り上がることが出来る。

市民に愛される存在になるには、市民が楽しめる存在でなくてはいけないのだろうな。鰻は関東風のあっさり、飾らない味だったが、おかみさんの濃厚な話を聞いて、二度楽しめた。今回の旅も当たりのようだ。


ニンジニアスタジアムにて


自由席なので14時半にはスタジアムについていたと思う、席種はメインA指定席。ベンチも撮れるしピッチもゴール裏より近い。ゴール裏の熱狂を撮るのも素晴らしいけれど、プレーヤーも撮るとなると距離がありすぎる。結果バックスタンドかメインスタンドの二択で、地元の人が来るバックスタンドは避け、最後に残るのはメインということになる。

スタジアムには試合開始3時間前から直行バスが出るが、自由席の人間には遅すぎるので普通のバスに乗って行く。松山市駅のバス停で瀬沼優司のファンだという女性に親切にしてもらい、迷うことなく辿りつけた。


長居では待ち列に養生テープを貼り、先頭から順に番号をふって名前を書いておくというルールがある。愛媛ではそういうものが無いらしく、さも当然とセレッソサポーターがテープを貼る様子を見て「ワシらもテープ貼らんといかんのじゃろか。」「これはJ1仕様じゃね。」と物珍しそうにしていた。牧歌的な雰囲気に肩透かしを食らうのは、J2のスタジアム共通だ。


スタジアム自体は国体に合わせて改装され、清潔だ。メインスタンドのコンコースだけが古めかしいが、悪くはない。ただサッカー専用のスタジアムと見比べるとトラックがどうにも邪魔に感じる。IAIスタジアム日本平のようなスタジアムが増えればいいのだけど。


応援のこと、試合のこと


愛媛FCのサポーターは、優しい熱を持っている。刺々しくなく、それでいてチームを愛している気持ちは強い。数は多くはないけれど、気持ちを強く持っている。


それを強く感じるのは、試合直前に歌われる「この街で」を聞く時だ。

この街で生まれ この街で育ち
この街で出会いました あなたと この街で
俺たちの愛媛 俺たちの誇り
俺たちと共に歩もう 愛する この街で

「この街で」や、大宮の「叫ばずにはいられない」には、どこを倒すとか、誰が一番だとか、そういう価値観が入っていない。ただ、自分たちの街にある自分たちのクラブが好きだ、自分たちの街が好きだという想いだけがある。


このケレン味のない真っ直ぐさに、セレッソは勝てない。去年は2分1敗、この試合も押しに押され、青息吐息のスコアレスドローだった。


歴史を重ねる意味


試合の翌日は帰路につくまで随分と時間があったので、ベタな観光コースだが松山城に足を運んでみた。この城の天守は建築当時の姿がそのままに残っている珍しいもの、日本全国でも12しか無いという。1852年に建てられたとあるから、恐らく高校生だった祖父も登ってみたことだろう。平山城の天守から見える松山市の様子は絶景だった。



昭和の初期に比べれば松山も都会になったのだろうけど、古い建物はそこかしこに残っていて、当時の面影があちこちにある。昼食後に立ち寄った「みよしの」さんも、そんな雰囲気を漂わせていた。


大街道の少し路地を入ったところにある古めかしいおはぎのお店で、かなりお年を召されたおばあさんが、もう一人の女性と二人で切り盛りをしている。夏には冷やしぜんざい、冬にはぜんざいも出すそうだが、この時期は名物である五色おはぎのみだという。こしあん、つぶあんに塩、ごま、のり、きなこのおはぎが、かわいらしく並んでいる。熱いお茶と炊いた昆布と合わせてのんびりと過ごす。

おばあさんと話しているうちに、先代(おばあさんのお母さん)と俺の祖父が同世代らしいということが分かった。その頃にはまだ店は無かったらしいが、ひょっとしたら会っているかもしれない。


そこからは腹ごなしに散歩、最後の目的地である愛媛大学付属中学まで歩く。ここにかつて旧制松山高等学校があったのだ。着くと敷地の横に石碑が建てられていた。


松山高等学校跡
青春、友情、希望 ここに存在せし一切のものの不滅を信ず。

この場所には五千余人の青春が、友情が、希望があったのだと、この石くれが教えてくれた。この石くれがある限り、祖父の大切な時間も消えることなく残るように感じた。

古くなるとなんでも使い勝手が悪くなる。建築物なら傷んでくるし、機能的にも見劣りがする。それでも、意味のあるものは残さなくてはいけない。そんな姿勢が大阪には無いんじゃないだろうか。


そんな想いが少しずつ堆積していって、歴史になり、伝統になり、強い意味を持つのだと思う。松山では試合も含めて2200枚の写真を残した。いつかこの写真にも意味が生まれるように、後ろから来る人たちにその意味を知ってもらうために。松山高等学校の石碑のように立派ではないけれど、小さなことでも続けていきたい。


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