「その画像、拾ったんです。他意はありません。」
今年何度も聞いた言葉だ。Twitterのカバーやアイコンに画像を使うのは、それは平気なんだ。もともとクラブからもお目こぼしをしていただいている風情だ。それで商売をしたりするつもりなんざ毛頭ない。
ただ、一言チクリと痛むんだ。
「拾ったんです」
ネットに流れている限り、それは誰がどう撮ったかなんて知る由も無い。だからクレジットなんて無粋なものを写真に入れなきゃならない。
寿司職人が、自分の握ったネタひとつひとつに「おいらが握りました!」なんて焼印はしない、玉は違うけど。蕎麦屋も洋食屋も、パン屋も総菜屋もしない。建築に関しては「定礎」というものがあるけど、それにしたって誰がどう関わったかなんて知れたものではない。
それは、それでも「この人が作った、この会社が作った」そういう氏素性がはっきりするからだ。記録や記憶が残るからだ。
写真は、例えそれがロバート・キャパが撮ろうが、木村伊兵衛が撮ろうが、荒木経惟が撮ろうが、そう分かる目か、知識がないと「やっぱアラーキーだよね」とか言えたものではない。そう、誰が撮ったかなんて誰もわからない。変った例えだけど、スーパーに並んでる野菜とか肉とか、そういうのに近いかも知れない。誰かが育てたんだけど、その誰かはわからない感じだ。
対策としてクレジット入れてたこともあるけど、やっぱり無粋なんだよな。クレジットの下にある色味も含めて写真なのであって、そこを文字で塗ってしまうなんてやな話だ。
SWITCH
そもそも、こんな話を書き出したのには理由がある。SWITCHという雑誌を買ったからだ。
Vol.35は荒木経惟の特集で、美しい写真がシッカリタップリてんこ盛り、インタビューではインタビュアーがホンマタカシという豪勢さだ。
「きっと…2000円くらいするよな、これ。」
そう思って裏表紙を見ると1000円とある。はっはっは、そりゃあないよ。きっと裏表紙に入った広告の商品が1000円なんだろ?
そうしてもう一度裏返すけれど、やっぱり1000円だった。雑誌だからこの定価、変えられないとかいうのもあるけど、確かに1000円だった。そうして、嬉しいような悲しいような、なんとも言えない気分になった。
この本買います!そう決断した者としては1000円というのはフトコロに優しい。一方、写真を撮る人間からすると、レジェンドでもある荒木経惟の対談や写真が1000円ぽっちで売られていることに悲しさを感じるんだ。
手に入りやすくなった「いい写真」
カメラがデジタル化して、先ず「現像代」という概念と、フィルム、現像設備への投資の必要性がなくなった。さらに科学の進歩でレンズの性能は飛躍的に高まった。一軒家とかマンションとか家庭とか、いろいろあきらめたサラリーマンがこんにゃろーと投資をすれば、プロが使っている機材だって買える。
そうして、俺のようなややこしい手合いが増えて来た。オイラはカメラマンでございというのが何百何万と生まれた。サッカーの写真でも、何試合かに一度は「よっしゃ!見たか!」と勝ち誇れるような出来になったりする(多分に自分勝手な勝負だけど)
そういうのがネットに流れることで、写真の価値そのものが消えてしまったんだろうか?
そんな悲しい想像が頭の中をグルグルとまわしていく。荒木経惟が載った雑誌が1000円なのは、俺がD500と16-80f2.8-4を購入したバタフライエフェクトかもしれないんだ。
このブログを読んでいる人はそう若くない(失礼)かもしれないけど、あえてここに買いておこう。
捨ててある写真なんてないってこと。
その写真のために苦心惨憺した「誰か」がいるってこと。
だから「撮る」という単語がある。だから「拾う」ではなく「いただく」になるってこと。
ああ、随分説教くさいな。今日はこれまで。
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