12/01/2016

Arigato Everton KEMPES Dos Santos Goncalves. I pray for you. #ForçaChape

すプレーオフのチケット争奪戦、まるでノルマンディー上陸作戦のオマハ・ビーチみたいだった。仕事も忙しかった。やっと「彼」について書く時間が出来たよ。

待たせてゴメン、Everton KEMPES Dos Santos Goncalves


彼がセレッソにやってきたのは2012年、柿谷曜一朗が徳島から復帰したその年だった。

その当時からセレッソは攻撃的なチームだったのだけれど、第一期レヴィ・クルピ政権が終わり、ちょうど転換期に移ろうとしていた。監督には若く野心的なブラジル人、セルジオ・ソアレスが就任した。


この前年までに香川真司、乾貴士という足元に強いタレントが海外移籍し、チームの核になっていたのは清武弘嗣だった。この攻撃陣に高さというファクターを加えるべく来日したのがケンペスだった。

その効果はさっそくホーム開幕戦、長居スタジアムにガンバを迎えての大阪ダービーで表れた。後半ロスタイム、右サイドでしぶとく粘ってクロスを上げる。そこに待ち受けていたのがケンペス。豪快なヘディングで劇的な決勝ゴールを決めた彼は、子供みたいに無邪気な笑顔でゴール裏にかけていった。鮮烈なホームデビューだった。


けれど、ここから苦労が始まった。スキル不足なのか、それとも運がなかったのか、彼のシュートはそのいちいちが「惜しい」の連続だった。ポストやバーを叩いたのは一度や二度ではない。

そのこぼれ球に反応したのが、同じく長居でのダービーから戦列に加わった柿谷だった。先だってのプレーオフ第一戦、京都戦でもソウザのシュートのこぼれ球にいち早く反応していたけど、あの嗅覚というか、貪欲さ、抜け目のなさのようなものを形作ったのは、ケンペスのシュートのおかげのように思う。高さとうまさ、彼らはお互いの足りない部分を補い合うようにプレーしていた。


ケンペスのゴール数は決して満足のいくものではなかった。けれど、ブラジル人らしからぬ献身性と、ブラジル人らしい陽気さ、そして穏やかで人懐っこい性格は、サポーターの誰彼からも愛された。

結局、彼とともに戦えたのは2012年だけだったけれど、その後も千葉でプレーし、J2の得点王にも輝くなど、日本のサッカーにも順応していた。ブラジルでも経験を生かし、よくよく頑張っていたようだ。facebookでは彼の奥さんと友人になったけれど、毎日のように彼の笑顔を見ることができた。幸せだった。


ここまで書き進めて、思う。彼には何も、罪はない。罰を受けるようないわれがない。どうして、34歳という若さで、人生を終えなければならなかったのか。愛する奥さん、大切なお子さん、大好きなチーム、大好きなサッカーとお別れしなきゃいけなかったのか。そんな人生って、あっていいのかって。

次の試合、プレーオフ決勝は絶対に勝たなきゃいけない。葬いだとか慰めだとかではなくて、彼の記憶は俺たちの中にしっかりと生きているんだってメッセージになるから。2万人の歓喜の中に、彼の魂がしっかりとあるのだという証になるから。天国ってのはそんなに近くにはないだろう。余程の大騒ぎをしてやらなきゃ、彼の耳に届くのか不安で仕方がないんだよ。


彼が亡くなったって聞いたその日、終電間際の御堂筋線に乗って長居に帰ってきた。ちょっと遠回りをして、ヤンマースタジアム長居まで行き、少しだけ泣いた。お寺や神社では筋違いだし、教会も近くにはないし、彼のために泣くことができる場所はそこぐらいしかなかったんだ。

ここに住んで二度目の冬になるけど、長居という地名を聞くのが辛かったのは、この日が初めてだった。もう、こんな想いはたくさんだ。


大好きなケンペス、辛い旅はもう終わった。好きなミニギターを弾いて、貴方を愛してくれた家族やチームメイト達を見守っていておくれ。ゆっくりと、また、子供みたいに笑いながら。

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