大学時代、もう18年も昔になるのか、俺は大阪の町外れのクソデカイ大学の、その片隅にある小さな学科で油絵を描いたりしていた。画家になろうという気は無かったけど、絵を描くことが仕事のプラスになれたらなとか漠然と考えていた。
実技の他に座学もあるのだけど、美とはなにかをよく問われたように思う、これは非常に厄介だった。例えば、誰かが美しいと感じる作品があったとして、けれどそれが万人に美しいと感じてもらえる保証はどこにもない。美とは不変なようで、絶対的であるようで、実は非常に曖昧模糊としたええかげんな存在なのだ。
タヒチの女性は太っているほど美しいと言われ、一方でヨーロッパのモデルは骨と皮だけのような姿が珍重される。そういうものなのだ。
この事を学んでから、俺は自分の中にある他人とは違う「これは美しい」という感覚を許してほしいと願うし、他の人が考える「これは美しい」という感覚を出来る限り尊重しようと心がけている。
大抵の憎しみの奥底には、「考え方の美しさ」という定義のしようがないもののズレが潜んでいる。お前の考え方、産み出すものは(発言者本人から見て)美しくない。だから排除されるのは当然だ。これは当たり前のようで非常に危険な考え方だ。
仮にその人がまた違う人から同じ事を言われたらどうするのだろうね。お前の考え方、産み出すもの、吐き出す言葉は美しくない。だからスタジアムに二度と来るな。そう言われたらどうするのだろうね。
ギラヴァンツ北九州のゴール裏、いわゆる「ぶちくらせ問題」とは、至極簡単に言うと美意識の押し付け合いが産んだ非常に醜い争いだ。
アニメゲーフラを掲げている人達を、意にそぐわないと圧力をかけておいて、自らが球団から意にそぐわないと言われれば抗議するなんて、とても滑稽な話だ。
人を許容せず、自らのみを許容しろは道理が通じない。仮に、力あるものが存在し続けるという価値観を持っているのなら、ゴール裏の14人は自らのルールに従って自らご退席されるのが道理というものだろう。
人間は、自分と異なるものを許すとか、認めるという行為がすごく苦手だ。それに、一度憎んだ相手を許すことも苦手だ。だから、最初から許容できる存在は許容したいと考えている。(例えそれが俺を村八分にしようとしているお歴々であっても、だ。)
憎むのは簡単、排除するのも一瞬、けれど一度そうなったら戻らない。だから、そこにいてもいいと決めてしまうほうが余程心地がいい。
マハトマ・ガンジーはヒンズー教原理主義者の若者に撃たれた際、あなたを許しますというジェスチャーをして彼らを責めなかったのだそうだ。さすがに死ぬまで許せとは言わないが、その1/10000くらいでも寛容さを持てたら、ここまでにこじれることは無かったのではないかな。
セレッソのゴール裏は、戦闘力は少ないけれど悪くはないところだ。Canonの1Dxにヨンニッパなんてプロが使うような機材を持ち込んで、写真撮影に没頭することさえ一つの文化になりうる緩さがある。その緩さこそが北九州には必要だったのかもしれないな。
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