1/03/2007

「どうした?本物のステーキだぞ。食べんのか?」

 私は子供の頃、手塚治虫のマンガに出てきたこのセリフを聞いて、随分ショックを受けた。

 そのマンガの中の世界では、食品は殆ど加工品、天然自然のものは稀にしかない。大地が荒れ果ててしまったその星では、そうしないと人が生きていくだけの食料が生産できないのだ。そしてそのような人工の食料を生産する機械化農場の経営者達が、大多数を占める労働者達から富を搾取していた。主人公の若者たちは不自然でアンバランスなこの社会に危機意識を持ち、農場の経営者に掛け合うのだが、富を築いた経営者の耳にそんな声は聞こえない。食べた事のないようなご馳走でも食わせれば懐柔出来るだろうと、彼らの前に貴重な「本物のステーキ」を出すのだ。

 つまりこの世界では、「本物のステーキ」なんて滅多に食べられないのだ。牛の肉なんて、庶民には手の届かないものなのだ。そんな世界が来るなんて、俄かには信じられなかったけれど、何気に書かれたこのセリフだけは、脳の片隅にへばりついていた。


 その感覚が、何年かぶりにフラッシュバックしてきた。今日は映画の日だし、天皇杯も無関係だし、以前から観たかった「パプリカ」がまだやっているというので、なんばまで出掛けた帰りの事だった。

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 よい映画を見た後独特の余韻に浸りながら映画館を出て、遅い夕食をとろうという話になった。以前家内が義父と行った某ステーキチェーンの事を思い出し、丁度映画館の近くにあったその店で、ステーキを食べる事にした。

 食券を買って席につくと、あっという間に熱く熱せられたプレートが出てくる。ご飯と味噌汁、それに大量の焼き野菜と結構な量のステーキ、これで980円とは安い。

 ただ、このステーキを食べていて、妙に思うことが二つあった。

 一つは肉の形、妙にまとまりすぎているのである。イラストレーターなどのソフトを使われている方なら判ると思うが、まるでペジェ曲線のように滑らかで、人為的な形をしていたのだ。

 もう一つは食感、周りのスジが入っている部分は固いのに、赤身の部分は奇妙なほど柔らかく、しかし味気ない。噛めば噛むほど味が出るでもなく、かと言って口の中でとろけるでもなく、不思議な感覚だった。

 勿論980円以上の値打ちがある料理だと思う。ただ食べた時の違和感はなんとも言いがたいものだった。


 店を出て家内にその話をした時、違和感の種明かしをしてくれた。その肉は赤身肉の中に牛脂を、さも霜降りの様に注入していたのだそうだ。確かに牛肉と牛脂であるから、原材料にかわりはない。しかしあまりにも人の手が入っているその肉のステーキを、「本物のステーキ」と呼ぶ事は、私には出来ない。二十数年ばかりの間に、手塚治虫が書いていた未来の世界が、現実のものになってしまったわけだ。


 人間とは業が深いものだと、つくづく思う。科学が進歩すれば、人の営みは豊かになっていくと教えられたが、十分すぎるほど科学万能の世界になった、現在の私達の暮らしぶりはどうだう。とても裕福とは言えない。そのうち本当に「本物のステーキ」など食べられない世界が来るのかもしれない。

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