9/08/2005

対岸の火事、じゃあないんだな。

 桜伐る馬鹿 梅伐らぬ馬鹿のみの字さんはここを「セレッソブログ界の1トップ」と言った。

「えっ?それってエースってこと?」

 と内心喜んでいたのだが、どうも「前線の削られ役」という意味らしい。まあ、そんなこったろうと思っていたよ。ちょっと期待した私が愚かでございました。


 確かに否定できないくらいこのブログは騒動を起こしてきた。意図していなかったものもあるし、意図的に引き起こしたものも有る。身の危険をかえりみずに「人生之ネタ」の姿勢でいるので、当たり前と言えばそうなのだけれど。


 そんな私ではあるけれど、さすがに最近有ったサポティスタの炎上ぶりは「引いた」。


 人が何かしらを創造する時、その個人、ないしは集団の性格が反映されるのは当たり前で、それに対して共感したり、違和感を感じる人が出てくるのも健全な反応。

 芸術の話をすれば、どれだけ素晴らしい芸術作品であっても、どの時代のどの人間も魅了した、という作品は未だに造られてはいない。ゴッホの作品に法外な価値が出てきたのは彼が拳銃自殺をした後の話で、ピカソが現代芸術に傾倒した時も、周囲は冷笑していた。


 しかしサイトの場合「好き」と「嫌い」のふれ幅がいささか激しいように感じる。それは現代の価値観の多様化と無関係ではないだろう。


 今の時代、明確な善悪は存在しない。元からそうだったのだけれど、ようやっとそういった考えが認知されるようになった。そして今まで影に追いやられていた人々が日の目を見るようになった。

 だからどんな異端(と多くの人が感じるような)サイトで有っても、ほとんどの場合明確に批判をする事が出来ない。批判をしてどういう展開になるのか予想が出来ないうちは、批判をして得られるメリットよりも、リスクの方が遥かに大きいからだ。


 ところが何かのきっかけで「これは悪だ、非難するべきものだ」というレッテルが貼られ、攻撃してもリスクがないと判れば、躊躇していたフラストレーションが大きい分、荒れぶり、燃えぶりは激しいものになる。(管理者が抵抗すればする程余計に悪化するから始末が悪い)

 掲示板は荒れ、誹謗中傷のメールが届き、悪意のアクセスがカウンターを回す。体験したものなら判ると思うが、受ける精神的なストレスは相当なもので、私のような厚顔無恥な人間でもない限り、大抵の個人サイトなら泣く泣く閉鎖、というのがお決まりのコースだ。


 これもまた自然な流れといえるのかも知れないが、この現状を切ないと感じているのは私だけだろうか。「自由というのは何をしても良いという意味ではなく、総ての行為に責任が伴うという事」という言葉は、サイト管理者だけではなく、閲覧者にも向けられた言葉だと解釈している。「書きこむ」のキーを押す前に、もう一度、冷静になって考えてみてほしい。





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