新しいレンズもいい感じだし、カメラの扱いにも慣れてきた。最近写真関係のエントリが増えているけれど、ご勘弁。
知り合いにプロカメラマンさんがいたり、実際に現場やスタジオで撮影されているのを手伝ったりした経験があるので、そういう意味での経験値みたいなものはあるのだと思う。
ただそれがいい写真、意味のある写真が撮れるということとイコールではない。本当に意味のある一枚は、心がないと撮れない。
昨日は家内と写真の整理をしていた。1999年、娘が生まれた頃からのもので、デジカメに移行した2005年くらいまでの5、6年間のものだったが、家内や義母は娘の成長が余程嬉しかったのだろう、結構まとまった枚数になっていた。
一枚一枚見ていると、心の奥底に埋もれていたその頃の気持ちがキレイに洗われ出てきた。初めて寝返りをうったころ、初めてつかまり立ちをしたころ、七五三、ひな祭り、幼稚園に行きだしたころ、それから小学校に入る前、買ってもらったランドセルを大喜びで抱きしめていたあの日。
どれもこれも、娘のイキイキとした顔が写っている。撮っている方の喜びも、容易に伝わってくる。手にとってている一枚一枚は、用紙にインクが乗っているだけの代物のはずなのに、どうしてこんなに気持ちが動くのだろう。
故人も結構写っていた。義母方のおばあさん、若い頃は美人だった彫りの深い顔も、愛おしそうに娘を見ている。じいさんも、何と晴れ晴れとした顔だろうか。どうして今生きていないのか、寂しい気持ちになる。
そんな中に、あの一枚があった。娘と親父が見つめあっている、たった一枚の写真。
ここで何度も書いているが、親父は本当に酷いやつで、オカンの言うこともロクに聞かず、飲む打つ買うは当たり前、じゃりン子チエに出てくるテツのようなロクデナシだった。酒をあおって自転車で転倒、癲癇を患って56で亡くなった。娘が長く家内の実家にいたので、会える機会が少なくて、なので二人が写っている写真も、この一枚きり。
ただこの一枚のおかげで、俺は救われた気持ちになる。孫の顔を満足に見せられなかった無念というか、罪悪感のようなものを、わずかに薄めてくれる。それくらい、親父の顔は、いい顔だ。
それまで家内とワイワイ言いながら整理をしていたのに、この一枚を見ていると、心がグラグラと動いて、どうにもいけない。少し泣いた。
写真というのは、きっとこんな時間のためにあるのだと思う。特別な技術や知識など必要ない。あるがままを、そのままに写せばいい。高価な機材は写真を鮮明にしてくれるが、写真の本当の意味を心の奥底まで届けるのは、そんな力ではないのだ。
だからどうか、肩肘はらず、どんなものでもいいから、カメラを持っていてほしい。そうして留め置きたい記憶を、漏らさず受け止めてほしい。あなたの人生は、少しいびつな形かもしれないが、そのいびつさこそが素晴らしいのだ。写真は、それを証明するためだけに、存在している。
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