仕事でガンダムを観る。
そんなアホなことがあるかと思われるのかもしれん、けれどこれがあるのだな。俺のクビをつないでくれたのは、間違いなくガンダム。
多くの作品の、魅力ある個性的なキャラクター達のセリフを書き起こす(時にはオリジナルのセリフもたくさん考える)作業は、辛いけれども楽しいもの。今では好きでガンダムを観ている。
で、ガンダムがなぜそんなに面白いかというと、勧善懲悪ではないから。
子供の頃観たファーストガンダムに出てくる「ジオン軍」は、えらく怖そうな軍隊だった。でも、大人になって、色々と資料を見てみると、また違った側面が出てくる。
ジオンの核を成している人々は「棄民」。地球に居座れる特権を持った人々によって、過酷な環境、宇宙に捨てられた人々。彼ら宇宙民(スペースノイド)が地球に居座った人達(アースノイド)に対して起こした反抗が、ガンダムで描かれた「一年戦争」。
ジオンの国力は、ギレン・ザビの演説を鵜呑みにするなら、地球連邦のおよそ30分の1しかない。なのに戦争をする。
したくない、しても勝ち目の薄い戦争でも、やらなければいけなかった。スペースノイドは生きていけなかった。それが、ジオンの「正義」
しかし国力に勝る連邦軍はガンダムを開発、息を吹き返し、ジオン(棄民)を再び押さえつける。そう見ると、アムロたちのやっていることって正義なのかと考えてしまう。
でもアムロにしてみれば、無理やり戦争に駆り出され、幼なじみであるフラウ・ボウの両親が殺されるのを目撃し、父はガンダム開発にのめり込むあまりに宇宙酸素欠乏症にかかって再起不能、母とも離縁してしまうのだから、怨恨とはいえ彼なりにジオンを叩く「正義」がある。
アムロだけではなく、敵味方全員の中に「成すべき正しい道」があり、それぞれがその道を突き進む。その中で道中違う者とぶつかったり、わかりあえたり。そうして紡がれた話が、ガンダム。
これって、現実でも一緒な気がするな。
皆が皆、成すべき道がある。セレッソという媒介、サッカーをという媒介があるから繋がっているけれど、個々人は微妙に違う理想を求めている。
勝っているうちは機嫌がいいけれど、負けが込むと全員が理想から遠ざかるので、せめて自分の理想は通したいと言い出す。そしてギクシャクする。
それは、ある程度は仕方がない。でもそんなバラバラでは、勝てるものも勝てない。
目の前で起きていることを見てみればいい。11人対11人のスポーツでも、僅かに連携がずれればすぐガタガタになる。
最近も書いたけれど、互いに「それぞれの正義」を受け入れなければ、今のセレッソは前に進めない。
だから俺は「俺の正義」と等しく、「誰かの正義」も受け入れたい。受け入れられる度量を持ちたい。苦しいことだとは知っているけれど、だからってお互いが壁を作れば、成せるものも成せない。
時々ネットに書かれることがあるのは知っている。正直、いい気持ちではない。でもアレを書いた人間にも、匿名とはいえ、避難を受ける覚悟があった。
ならば、耳目を集めて受け止めたい。
俺にできることであれば、皆にもできることだと思う。俺は「人ができること」ができない、不器用で無神経な人間だ。その俺ができて、ほかの人間にできないはずはない。
別に俺ははじかれても、それでセレッソを核にした、人の強いつながりができるのであれば、それでかまわない。無理だと思わず、自分が成すべきことを成してほしい。
0 件のコメント :
コメントを投稿