小学校の高学年ぐらいだったか、私はニュースを観ていて「世界は悲しい出来事で覆われているのだろうか」とつらい気持ちになった時があった。
ダンプにはねられて子供が死にました。
働き盛りのお父さんが過労死しました。
政府が対応を怠ったために沢山の人が難治の病に苦しんでいます。
そんな話ばかりがブラウン管から流れてくる。どうして私はこんなに辛い事ばかり起こる世界に生まれてしまったのだろうと。
今思うと、子供の頃の私はえらく悲観主義的だった。ニュースが悲劇ばかりなのは、世界が悲劇で彩られているからなんかじゃない。他者の悲劇こそが、より多くの人を引き付けるコンテンツなんだ。
私はいわゆる「アクセス乞食」の類なんで、アクセス数は気にしている。書いた記事とその反響を逐一見ていると、おかしなことに気がついた。よいニュース、例えばセレッソが勝っただとか、嘉人がゴール決めただとかよりも、ほんの些細なバッドニュースの方が、遥かにアクセスが伸びるのだ。
別にアクセスする全ての人が、ある種の悪意を持って訪れているとは思わないけれど、きっとニュース番組の殆どがバッドニュースなのも、同じような理由からなんだろう。
昨日私はニュースを通して、東京である企業の青年実業家が逮捕され、東シナ海で中国の漁船が日本の漁船を駆逐しつつあり、北陸の片隅で雪に難儀する人々がいる事を知った。
でも私の与り知らないような世界の片隅では、きっとそれと同じ時刻に、新しい命が生まれたり、羨ましいほどの恋が続いていたり、おばあさんの長生きを祝うパーティが行われていたりするんだろう。この世は、子供の頃の私が思っているほど、息苦しいわけではなさそうだ。
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