8/05/2014

応援のスタイルについて、セレッソは大切なものだから。 #cerezo #photo #diary


想像してみてほしい。

あなたの大切な家族、恋人、友人がピンチの時に、どう声をかけるか、アクションを起こすか。例えば友人がいじめにあっているとする、そういう時どうするかということを。

ある人なら、いじめている側に注意しに行くだろう。ある人なら、友達に「やり返したれ!」と発破をかけるだろう。ある人なら、粛々といじめの記録をとり、ちゃんとまとまったところで学校なりに届け出るだろう。他にも方法はあるかもしれない。

さて、ここで問題なのだけれど、果たしてどれがベストの方法だろうか。

明確な正解が無いってことはすぐに分かるだろう。個々の事例なり、友人と自分の関わりであったり、いじめた側と自分の関わりであったり、そして自分の気質であったり、条件は違う。なにより、それぞれにそれぞれの考えがあるはずなんだ。各々が友人を親身に思い、必死に起こしたアクションに不正解なんて無いし、正解も無い。それぞれのベストがあるだけだ。


今のセレッソは弱い、勝ち点を伸ばせずピンチだ。セレッソを大切な家族のように、恋人のように、友人のように感じている人は、誰しもそこを抜け出すためのアクションを起こしたいと考えているだろう。

でも、それぞれがアウトプットしてくるアクションには違いが出てくる。ただ温かく見守る人もいるだろうし、発破をかける人もいるだろうし、なにが問題かを考え、ここを変えるべきだと意見する人もいるだろう。

そのどれもが正解で、どれもが不正解なんだ。ただ、それぞれのベストがあるだけで。


だから、俺は「俺はこう思う、こうすべきだと考える」と主張はするし、そこを曲げようとするバイアスに対して反抗はするけれど、他の考えを持っている人も、例えそれが俺の考えを否定している人であっても、その人の考えやアクションを全否定したりはしない。それは、モノを投げつけるとか口汚くののしるとか、ストレスのはけ口にしている人には「違うだろう」と言うけれど、真剣に応援している人のアクションは否定出来ない。

それぞれのチームや個人の応援スタンスは、チームとの関わりやそれぞれの成り立ち、バックボーンによってバラバラで、だからやり方が違うのも当たり前なんじゃないだろうか。

それを個々に「批判」してもあまり実りはないだろう。自分がベストと思う方法を否定されて、すぐに「ああそうだね」と宗旨替えする人なんてそういるものではないから。


俺は、ぶっちゃけいろんな人が嫌いだ。意見とか合わないし、俺見ただけで避ける人とかいるし。でも、その人の応援スタンスまでは否定しない。その人なりにかくあるべしという強い意志を持って、スタジアム練習場、テレビやスポーツバーで必死に応援しているのだろうしね。


呉越同舟、敵同士でも一艘の船に乗ることができる。それが小さなスタジアムの中で、同じサポーターどうして憎しみ合ってどうする。とりあえず試合の時は、練習の時は、応援というアクションだけに専心して、意見出しあうのはその後、それでいいんじゃないかな?

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