ジーコ言うところの「黄金の中盤」にあって、小野の「ツキの無さ」はとりわけ目につきます。
98年フランスW杯、ジャマイカ戦に登場した彼のプレーは、3戦全敗に終わった日本代表の、数少ない収穫でした。新時代の到来を予感したサポーターも多かったでしょう。
しかし、その後の選手生活は、苦難との戦いの連続でもありました。
「もし小野にもう少し運があれば、日本のサッカーは変わっていたかも知れない」
そんな想いを持つ人もいるでしょう。
W杯の前年、97年の12月に浦和レッズと契約。プロ選手としてのスタートを切ります。それからサポーター達を魅了するようになるまで、それほど時間はかかりませんでした。98年の新人王ほど選考の余地が無いタイトルもなかったでしょう。
しかし99年、最初の試練。浦和レッズの新監督に就任した原博美は、同年に入団した大学ナンバーワンFW、盛田をポスト役にロングフィードを多用するサッカーを展開。
小野がボールに触れる機会は激減し、それに付随するように、チームは崩壊を始めます。
同年にナイジェリアで開かれたワールドユース選手権では、クラブチームでの鬱憤をはらすかの様な大活躍。高原、中村、稲本、本山、遠藤。後にフル代表として活躍する事になる「黄金世代」の中にあっても、その才能は傑出していました。そして日本ユースは初の決勝進出を果します。
しかしそのピッチに、小野の姿はありませんでした。累積警告による出場停止。スペインの前になすすべなく失点を重ねるチームを、彼はどんな想いで見ていたのでしょう。
さらなる不幸が、小野を襲います。シドニーオリンピックアジア地区一次予選最終戦。フィリピン代表選手の劣悪なバックチャージにより足を負傷。苦痛に顔を歪ませ、ピッチをのたうつ小野の姿に、楽勝ムードだった国立競技場が凍りつきます。オーストラリアの地を踏む事無く、彼のオリンピックは終わったのです。
追い討ちは続きます。レッズが最終戦、あと僅かのところで残留に失敗。J2降格が決定したのです。
しかし、彼はレッズを見捨てる事も、自身の運命を悲観する事もありませんでした。
「J2でレベルの低いサッカーを続けるのはもったいない」そんな雑音を振り払い、怪我あけの体をおして一年でのJ1復帰に尽力。5年前のJ2は、今よりもさらに劣悪な環境でしたが、不平不満を漏らす事はありませんでした。
その後の活躍はご存知の通り。オランダ、エールディビジでは名門フェイエノールトの中心としてプレー。代表においても母国開催となった韓日W杯ベルギー戦にて鈴木隆行の「つま先シュート」を演出するなど、無くてはならない存在になりました。ジーコジャパンのオープニングゴールを決めたのも彼。アテネオリンピックでは不本意な結果に終わりましたが、小野個人のポテンシャルの高さに疑いの余地は無いでしょう。
「もし小野にもう少し運があれば、日本のサッカーは変わっていたかも知れない」
そういう見方もあるでしょう。しかし、こう捉える事は出来ないでしょうか。
「小野が苦難を乗り越えてきたからこそ、今の日本サッカーがある」
確かにここ来ての怪我は代表にとって大きなダメージ、初戦は厳しい闘いになるでしょう。しかし、小野はきっとピッチに帰ってくるはずです。苦難を乗り越えて、以前よりさらに大きくなって。
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