6/14/2005

報道のモラルってなに?

 ワールドカップ本戦出場が決まったというのに、何故か気持ちがモヤモヤしていた。嬉しいんだけれど、ちょっとおかしいんじゃないかなって感じてた。漠然としだ表現で悪いのだけれど、いつものニュース番組なんかの取り上げ方が、何となく気に入らないのだ。

 代表の今までを全て好意的に捉え、いけしゃあしゃあと「ジーコさん!ウチの局は貴方の事を信じていましたよ!」と猛アピール。宮本や大黒はキツイスケジュールの中でいくつもテレビ局を回ってた。そしてクタクタの筈の彼らへの質問はすごくレベルの低いもので、時々「それくらい調べたら判るだろ」というものまで有った(それを嫌な顔一つせずに応対していた宮本はよく我慢していたなと思う)


 「勝てば官軍」という諺が有るけれど、本当に今の状況が代表にとって良いものなのだろうか?そもそも私はこの言葉が嫌いなのだけれど。


 ジーコの選手選考や起用、指示の中には理解に苦しむものが多かった。「日本はサッカー後進国だから、日本人にはジーコの考えている事が判らないのだ」では片付けられないような、明らかなミスも有った。またニュースなどではジーコがさも選手の自立とか自主性を「育てた」ように報じられているけれど、窮地の時に選手間で話し合いが持たれることは02年のワールドカップでも有った。


 そういう都合の悪い、整合性を欠いてしまうところに蓋をして、お祭り騒ぎを続けていたら、本戦、ひょっとしたらコンフェデや東アジア選手権あたりで、またキリンカップのような冷や水をぶっ掛けられそうな気がする。まだまだ日本人は(自分も含めて)サッカーに対する造詣が浅い。


 と、思っていた時にインファイトのリーダー河津亨氏の記事を見つけた。ジーコ肯定派と否定派に関する記事には共感するものが多かった。

CRAZY DIARY.jpg


 結局報道というのはどれだけの人間が見聞きするかが評価の対象であって、どれだけ詳しく、真剣に取り上げられても、誰も見聞きしなければ、それは失敗なのだ。ついでに言うと対象がその報道によってどうなろうと、裁判沙汰にでもならない限り、知った事ではなかったりする。松本サリン事件の被疑者と思われていた人物に対する謝罪は報道量に比べて妥当だっただろうか?


 所詮代表も視聴率、購読者を稼ぐ為の取材対象でしかない。そんなスタンスでしかサッカーに向き合えないマスコミに乗せられて、有頂天になっていてはいけない。せめて個人レベルで、真摯にサッカーを愛していたい。





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